マンスリー上次さん 特別版
2016.04.18 Monday | moegi
私はまた一人の恩人を失いました。その方の名前は鈴木智之さん、4月12日享年81歳でご逝去されました。その方との出会いは運命的でした。1996年、清里の父と言われたポールラッシュ博士の記念館のオープニングセレモニーに出席していた私に、初対面ながら「君がビールを作ろうとしている男か、それはやめなさい」と声をかけてきたのが鈴木さんだったのです。当時私は地ビール工場建設の計画を進めていましたが、その計画をやめろとの一言。続けて「ビールは間口が広そうに見えるが奥が深く簡単なものではない。それを素人がやろうするのは無謀だ。悪いことは言わない、失敗するのが目に見えているからやめなさい」と言うのです。その日から鈴木さんとの物語が始まりました。
鈴木さんは高校時代は野球のピッチャーをされていたそうです。そして大学進学後は関西学院大学のアメリカンフットボール部でクオーターバックをされていたそうです。大学一年の時、アメリカンフットボールに関する本の原書を読み、こんなすごいゲームがあるのかとアメリカンフットボールにのめりこんだようです。大学一年の時からいわば司令塔であるクォーターバックとして活躍し、大学時代一度も負けたことがないという歴史に残る名選手です。その後も社会人チームの指導者として活躍し、鈴木さんの関わった試合は負けたことがないという、とんでもない勝負師なのです。万来舎というところから「勝利者―一流主義が人を育てる勝つためのマネジメント」という本を執筆、人生哲学について書いていらっしゃいます。人間は感性が大事で、組織の中では一人一人の役割はそれぞれ違うのだということを教わりました。大学を卒業してからは商社マンとしてニューヨーク駐在、その後独立して鈴木インターナショナルという会社をおこし、ビールの瓶詰機や缶詰の優れた機械を海外から輸入する仕事をしてきました。特にビールのプラント輸入では日本のパイオニア的な存在で、日本のビール業界では知らない人がいないと言われた方です。ドイツ政府から国家功労勲章「一等功労十字章」を受け、日本人でありながらフォン(伯爵)と呼ばれていた方でもあります。文武両道で、スーパー歌舞伎の中村猿之助さんと義兄弟と言われるほど芸術文化にも造詣が深く、とてつもなくダンディーな方でした。私の知る中でも超かっこいい人です。
私は鈴木さんに「やめろ」と言われましたが反論しました。「清里は“名物”と言われる物がないんです。八ヶ岳の名水を生かし、どうしてもビール事業を起こしたい。やめろと言われても私はやります」と何回も食い下がりました。すると鈴木さんは「私はポール・ラッシュ先生にお会いしたことはないが、先生がアメリカンフットボールを日本に紹介してくださらなかったら今の自分はない。その恩人の地元で育った君がそこまで言うのであれば、ポール先生の恩返しのつもりでお手伝いさせてもらおう。そのかわり私の言うとおりにしなさい」と言ってくれました。「ビール作りのプロフェッショナルは日本にそう何人もいるわけではない。私の知っている醸造家の中に山田一巳さんという、キリンビールで商品開発をしている人がいる。彼はビール酵母の操り方がとても上手いので、その人に手伝ってもらおう。山田さんとの交渉は私がする」とのことでした。私は大阪に呼ばれ、鈴木さんの会社で山田さんと出会いました。キリンビールで「一番しぼり」等のヒット商品を手がけた名人・山田一巳さんも、鈴木さんに言われたのでは断れないと言ってくださいました。私は超一流の作り手の方とこの計画をスタートすることができたのです。
そしてすぐ本場ドイツへの研修旅行に行くことになりました。ビールのことを知らない私をドイツの名門ブルワリーに連れまわしてくれました。本場ドイツのビールフェスティバルにも連れて行ってくださいました。驚いたことに、お店を出しているドイツのビール会社の社長さん達が、鈴木さんの顔を見るや否や駆け寄ってきてあいさつをしに来るのです。ドイツのビール関係者にも知られた有名な方だったのです。そんな忙しい方が時間とお金を使って私の計画を成功させようと力を貸してくださったのです。
鈴木さんが紹介してくださったことはたくさんありますが、中でも大きなことは、ビールの味を決定する大きな要素であるビール酵母の入手先です。ビール酵母の世界一の研究所・ミュンヘン工科大学の酵母研究所から最高の生酵母を手に入れることができたのです。そして名人匠・山田一巳さんがその酵母を操り、清里と言うド田舎で、とんでもないビールが誕生したのです。旨いビールは大変評判になりましたが、山田さんはコンクール嫌いです。コンクールには出品せず、とにかくお客様に喜んでいただくことを一番大切にする信念の持ち主です。おそらく受賞するであろうことがわかっていても出品しませんでした。私が「そうは言っても一度でいいからコンクールに出して、自分たちのビールがどのレベルなのか知りたい、出品してほしい」とせがむと、渋々「一度だけだぞ!」と言ってくれたのです。結果は案の定“日本一”。私が「山田さん、さすがですね。すごい!ありがとうございます。」と伝えると、大変不機嫌そうなのです。山田さんいわく「舩木社長は俺の作るビールをどの程度だと思っていたんだ?!俺はいつでも最高のビールを作っている!」と言い切りました。気持ち良いくらい迷いが晴れました。その報告を鈴木会長にすると会長も本当に喜んでくださいました。3年前、2年前と“アジアNO1”を受賞し、昨年ついに世界的なビールコンクールで優勝し“世界一”の称号をいただきご報告した時も、本当に喜んでくださいました。
そんな恩人の突然の死。遺影と一緒に掲げられた“夢”と書かれた色紙。奥様と後を継いでいるご子息様が「ずっと夢を追い続けた人でした。そしてあなたのような夢を抱く人を応援し続ける人でした」とおっしゃっていました。多くの政財界やビール業界やアメリカンフットボール関係者の方々に見送られて天国に召されました。棺の中で眠る姿は穏やかでとてつもなくダンディーで素敵なお顔をしていました。ポール・ラッシュ先生もそうでしたが、鈴木さんも多くの人の心の中で生き続けるのだろうと思いました。昨年お会いした時に「来年の清里フィールドバレエは見に行かれるように体調を整えておくよ」と言ってくださったことを励みに、今年は鈴木さんに見てもらうんだと張り切って準備をしてきましたが、本当に残念です。天国から見守ってください。
私を育ててくださった多くの人が天国に旅立っていきました。私もその方々のように人の心の中に生き続けられるような生き方をしたいと思います。そのために、私も旅立つ時まで・・・Do Your Best! and It Must Be First Class.・・・天国の多くの恩人の一人一人に改めて誓う一日になりました。
鈴木さんは高校時代は野球のピッチャーをされていたそうです。そして大学進学後は関西学院大学のアメリカンフットボール部でクオーターバックをされていたそうです。大学一年の時、アメリカンフットボールに関する本の原書を読み、こんなすごいゲームがあるのかとアメリカンフットボールにのめりこんだようです。大学一年の時からいわば司令塔であるクォーターバックとして活躍し、大学時代一度も負けたことがないという歴史に残る名選手です。その後も社会人チームの指導者として活躍し、鈴木さんの関わった試合は負けたことがないという、とんでもない勝負師なのです。万来舎というところから「勝利者―一流主義が人を育てる勝つためのマネジメント」という本を執筆、人生哲学について書いていらっしゃいます。人間は感性が大事で、組織の中では一人一人の役割はそれぞれ違うのだということを教わりました。大学を卒業してからは商社マンとしてニューヨーク駐在、その後独立して鈴木インターナショナルという会社をおこし、ビールの瓶詰機や缶詰の優れた機械を海外から輸入する仕事をしてきました。特にビールのプラント輸入では日本のパイオニア的な存在で、日本のビール業界では知らない人がいないと言われた方です。ドイツ政府から国家功労勲章「一等功労十字章」を受け、日本人でありながらフォン(伯爵)と呼ばれていた方でもあります。文武両道で、スーパー歌舞伎の中村猿之助さんと義兄弟と言われるほど芸術文化にも造詣が深く、とてつもなくダンディーな方でした。私の知る中でも超かっこいい人です。
私は鈴木さんに「やめろ」と言われましたが反論しました。「清里は“名物”と言われる物がないんです。八ヶ岳の名水を生かし、どうしてもビール事業を起こしたい。やめろと言われても私はやります」と何回も食い下がりました。すると鈴木さんは「私はポール・ラッシュ先生にお会いしたことはないが、先生がアメリカンフットボールを日本に紹介してくださらなかったら今の自分はない。その恩人の地元で育った君がそこまで言うのであれば、ポール先生の恩返しのつもりでお手伝いさせてもらおう。そのかわり私の言うとおりにしなさい」と言ってくれました。「ビール作りのプロフェッショナルは日本にそう何人もいるわけではない。私の知っている醸造家の中に山田一巳さんという、キリンビールで商品開発をしている人がいる。彼はビール酵母の操り方がとても上手いので、その人に手伝ってもらおう。山田さんとの交渉は私がする」とのことでした。私は大阪に呼ばれ、鈴木さんの会社で山田さんと出会いました。キリンビールで「一番しぼり」等のヒット商品を手がけた名人・山田一巳さんも、鈴木さんに言われたのでは断れないと言ってくださいました。私は超一流の作り手の方とこの計画をスタートすることができたのです。
そしてすぐ本場ドイツへの研修旅行に行くことになりました。ビールのことを知らない私をドイツの名門ブルワリーに連れまわしてくれました。本場ドイツのビールフェスティバルにも連れて行ってくださいました。驚いたことに、お店を出しているドイツのビール会社の社長さん達が、鈴木さんの顔を見るや否や駆け寄ってきてあいさつをしに来るのです。ドイツのビール関係者にも知られた有名な方だったのです。そんな忙しい方が時間とお金を使って私の計画を成功させようと力を貸してくださったのです。
鈴木さんが紹介してくださったことはたくさんありますが、中でも大きなことは、ビールの味を決定する大きな要素であるビール酵母の入手先です。ビール酵母の世界一の研究所・ミュンヘン工科大学の酵母研究所から最高の生酵母を手に入れることができたのです。そして名人匠・山田一巳さんがその酵母を操り、清里と言うド田舎で、とんでもないビールが誕生したのです。旨いビールは大変評判になりましたが、山田さんはコンクール嫌いです。コンクールには出品せず、とにかくお客様に喜んでいただくことを一番大切にする信念の持ち主です。おそらく受賞するであろうことがわかっていても出品しませんでした。私が「そうは言っても一度でいいからコンクールに出して、自分たちのビールがどのレベルなのか知りたい、出品してほしい」とせがむと、渋々「一度だけだぞ!」と言ってくれたのです。結果は案の定“日本一”。私が「山田さん、さすがですね。すごい!ありがとうございます。」と伝えると、大変不機嫌そうなのです。山田さんいわく「舩木社長は俺の作るビールをどの程度だと思っていたんだ?!俺はいつでも最高のビールを作っている!」と言い切りました。気持ち良いくらい迷いが晴れました。その報告を鈴木会長にすると会長も本当に喜んでくださいました。3年前、2年前と“アジアNO1”を受賞し、昨年ついに世界的なビールコンクールで優勝し“世界一”の称号をいただきご報告した時も、本当に喜んでくださいました。
そんな恩人の突然の死。遺影と一緒に掲げられた“夢”と書かれた色紙。奥様と後を継いでいるご子息様が「ずっと夢を追い続けた人でした。そしてあなたのような夢を抱く人を応援し続ける人でした」とおっしゃっていました。多くの政財界やビール業界やアメリカンフットボール関係者の方々に見送られて天国に召されました。棺の中で眠る姿は穏やかでとてつもなくダンディーで素敵なお顔をしていました。ポール・ラッシュ先生もそうでしたが、鈴木さんも多くの人の心の中で生き続けるのだろうと思いました。昨年お会いした時に「来年の清里フィールドバレエは見に行かれるように体調を整えておくよ」と言ってくださったことを励みに、今年は鈴木さんに見てもらうんだと張り切って準備をしてきましたが、本当に残念です。天国から見守ってください。
私を育ててくださった多くの人が天国に旅立っていきました。私もその方々のように人の心の中に生き続けられるような生き方をしたいと思います。そのために、私も旅立つ時まで・・・Do Your Best! and It Must Be First Class.・・・天国の多くの恩人の一人一人に改めて誓う一日になりました。
上次さんの気持ち
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