萌木の村 村民かわら版

八ヶ岳・清里高原「萌木の村」のスタッフが綴る季節ごとの村の表情や、個性あふれる各店舗のあれこれです。
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マンスリー上次さん 10月号

joji2015-2.png 現在の「萌木の村」がある場所は、東京都の上水道の水源である小河内ダムの建設にあたり、ダムの湖底に沈んだ山梨県丹波山・小菅両村の28戸の人々が開拓した場所です。入植したのは昭和13年4月17日。当時は戦争による不況の最中で、日中戦争が始まると物資の規制が厳しく、開拓地は困難につぐ困難でした。
 私の父親は丹波山村で生まれ、子だくさんの家だった為に叔父にあずけられ、その叔父の家族としてこの地に来たと聞いています。私の父は10代から開拓者として畑づくりを行っていましたが、太平洋戦争から帰った後は、戦後の新しい農村モデル事業として開設されたポール・ラッシュ先生の清里農村センターに就職しました。そして、甲府空襲で清里に疎開していた私の母と出会い結婚。昭和24年に私が生まれました。清里開拓初期の頃の厳しさは先輩達によく聞かされました。私が物心ついた頃の貧しさが未だに脳裏に蘇ってくるのですから、諸輩方の時代は本当に大変だったと推察されます。
 私の生きてきた清里の66年間は、共に助け合い明るい明日を夢見た開拓の時代でした。皆で協力し合いなんとか生きていくことができる、そんな時代でした。そして、より理想に近い農村を作ろうとしたポール・ラッシュ先生の事業の真っ只中で幼少時代を過ごし、培われた経験が、今の私の考えの柱になっていることを実感しています。
 私は23才の時にROCKをオープンさせ、ずっと萌木の村を築いてきました。そして振り返ってみると実は私自身、考え方が時々ぶれていたのではないかと思うことがありました。しかし今ようやく、ポール先生とそのスタッフの先輩方がやろうとしていたやり方、考え方が「なるほどこういうことだったのか」とわかるようになってきました。そしてそれは私がいつでも上昇志向であったから、いつでも自己否定する気持ちがあったからだと思います。その為、私の歴史のなかでの行動パターンはこうなります。低度中途半端、中度中途半端、高度中途半端、でもちょっとがんばる。やってきたことが中途半端ということはしっかりした考えがなかったということです。しかし中途半端な事は私にいろいろ知恵を与えてくれました。
 私の中では自分のしてきたこと、見てきたこと、すべてが頭の中でミキサーにかかったような状況です。そして、これから何をしなければいけないのかがやっと見えてきました。そして、質の高いパーフェクトに近い考え方がまとまっていること以外は行動を起こさないと決めました。
 また、自分一人で完結できない計画は私のイメージと違う結果になってしまいます。ですからそのような計画を進める時はチームを作らなければなりません。そんな時私は二つの方法を考えています。一つの方法は、私以外の人が完全なビジョンを持っている場合は、私はサポーターにまわります。もう一つの方法は、私の考え方を理解しチャレンジしたいが本人は何をしていいのか見つからない場合に、ともかくその人に1つの成功体験をさせることです。
 今、萌木の村では新しい挑戦がたくさんできます。人生は一度だけです。生まれてきたからには自分自身で最高だと思えるような生き方をしたいものですし、皆さんにもそのような人生を送っていただきたいと思います。
上次さんの気持ち
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