5月から咲き始めた萌木の村ナチュラルガーデンの山野草や花々は季節が進むにつれ、春には春の、夏には夏の、秋には秋の花々が次から次へと咲き続けています。私はポール・スミザーさんの考え方がだいぶ理解できるようになりました。そして、そんな山野草に囲まれた中で10月3日、4日に「清里ウイスキーフェスティバルin萌木の村」が行われます。また10月24日、25日には「私のカントリーフェスタin清里」も予定されています。ここ2,3年お見えになっていない方は、ぜひお越しください。今の萌木の村はだいぶ環境が変わったので、少しは皆さんに喜んでいただけることと思います。
さて、「清里ウイスキーフェスティバルin萌木の村」をこの地で行うことについて私の思いがあります。地ビールを作り、ロックで飲んでいただき、お酒のことを考えるようになりました。お酒は飲み方によってはすばらしく、また時には問題になることもあります。私は清里に「お酒を素敵に飲む」環境・文化を作っていきたいと思うのです。そんな中でなぜ北杜市では、ウイスキー、日本酒、ワイン、ビールとこんなに多くのアルコールが作られているのでしょうか。偶然だったのでしょうか。結果としては必然だったのだと思うのです。それは、この地の水の豊さが他の地域とは比べることができないことにあると思うのです。この地の水の水質は多種多様です。それらの水はウイスキー、日本酒、ワイン、ビールを作るのに相性がぴったり合うのです。アルコールを作るのに、知識と技術と材料が同じだったら、良質の水で作れる地が選ばれます。私達はこの地において、その力を最大限に活かした「まちづくり」を提案していきたいのです。
私達は世界一すばらしい景観のこの地で、お酒を通じてそのすばらしさを発信していく「まちづくり」をしていきたいと思うのです。その第一歩として、今回の「清里ウイスキーフェスティバルin萌木の村」を行いたいと思っています。まず、第一歩を踏み出し、地域の皆さんと一緒にこのふるさとを楽しい場所にしていきたいと思います。舞台上には出演する役者はそろっているのに、私達がまだ自覚していないのでは情報発信はできません。伝統と歴史を持っている日本酒の蔵元が4つ(七賢・谷桜・男山・武の井)、ワインでは日本を代表するワインになった「ボーペイサージュ」の岡本英史さん、今や女性醸造家として世界からも注目されている中央葡萄酒の三澤彩奈さん、そして私達の地ビールであるタッチダウンビール。(ちなみにタッチダウンのロックボックはアジアNo.1にも選ばれました)。そんな恵まれた土地ですから、そのことを知ってもらうのと同時にこの地に住む人達にもそのことを知ってもらい、自分たちがこんなにすばらしい所に住んでいるんだということを日々感じながら生活してもらいたいのです。
多くの人達は最近の猛暑、ゲリラ豪雨など何か地球が変だなと思い始めていると思います。中国をはじめ経済成長をして、皆が少しずつ豊かになってきたように思うのと同時に何か大事なものを失っているように思う人が増えていると思います。私達人間は他の生命体の動物や植物とは違い、感情があります。そして、欲望があります。「飲む・打つ・買う」という人間を堕落される欲望はすべての人が持っていると言ってもいいでしょう。でも、この欲望を素敵にコントロールすることもまた人間の持っているすばらしい能力だと思います。
例えば、お酒には昔からこんな力があると言われています。
~堕落した酔っぱらいには、江戸時代の酒客たちの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい話がある。実は江戸時代の酒の飲み方は現在よりもはるかに洗練されていた。
「餅酒論(もちさけろん)」という一種の知的なゲームからそのあたりが解明されるのだが、これは、餅が好きな人と酒が好きな人たちが集まり、餅組と酒組の二組に分かれて、餅と酒のどちらがすばらしいか、また相手にはどんな欠陥があるかなどの議論を戦わすというものだ。その様子はニュースで見るイギリスの議会を思い浮かべるといいだろう。与党議員と野党議員が右と左に分かれて、お互いに向かい合ってディスカッションをするあれを江戸時代の日本人がやったのである。
一方には、餅が好きで酒が嫌いだという甘党が座り、もう一方には餅なんてとんでもない、酒だという辛党が座る。そして、餅党は酒の悪いところと餅のいいところを論じ、酒党は、餅のだめなところと、酒のすばらしさを言う、これが「餅酒論」である。結論としては酒も餅もほどほどがいいということで決着がつくのだが、いかにも知的なやりとりである。
「餅酒論」の起源はかなり古いようで、室町時代の狂言に「餅酒」というものがある。このあたりからずっと受け継がれてきたのだろう。ところで、この「餅酒論」の結論として酒組のまとめた「酒の十徳」というものが出てくる。これは酒の持つ十の効用を並べてあげて、酒を称賛したものである。
それによると十徳の第一は「酒は独居の友となる」。つまり独り淋しいときに、酒は友人のように自分を励ましてくれるというものだ。第二の徳は「労をいとう」。仕事で疲れた体を酒が安らかにしてくれるということ。第三は「憂を忘れる」。文字通り、酒にはいやなことを忘れさせてくれる効用がある。第四は「鬱(うつ)をひらく」であり、心の愁いを払ってくれるというのである。第五は「気をめぐらす」。前の項と関連があるが、酒は体に活気をみなぎらせるということ。第六の徳は「推参に便あり」。すなわち祝いや見舞い、土産などに持っていくと大層喜ばれるということだ。第七の徳は、酒が「百薬の長」であるということ。程よく飲んでいれば、酒は健康を保ち、延命の効果さえあるという。第八は「人と親しむ」。まさに、酒は人の心を開く、酒は人と人をつなぐ接着剤のような役割をする。第九の徳は「縁を結ぶ」。酒によってすばらしい人との出会いがあるということ。そして、第十の徳は「寒気の衣となる」。寒いときに酒を飲むと体が温まるので、ちょうど衣を着たようなものだというわけだ。どうだろうか、昔の人はこのような酒の十徳をつくって酒を敬っていたのである。もっとも、「酒の十徳あり」と決めつけている古文書ばかりではなく、害のあるものだと記しているのも少なくない。そこには、「狂水(くるいみず)」「地獄湯(じごくとう)」「狂薬(きょうやく)」「万病源(まんびょうのもと)」などといった言葉で酒害を説いている。
酒は心で始まり、心で終わる。
確かに、ほどよく飲めば十の徳を持ち、百薬の長となる酒であっても、飲み方を誤れば狂水にも地獄湯にもなろう。イッキ飲みや自己排他的酒飲みをするような現代人には酒は狂薬となって万病の源になるに違いない。酒の力を借りて威張ったり、酒の力を借りてストレスを発散したりといった飲み方は本来の酒の飲み方ではない。酒を敬い、酒の心を知って、自分の心をそれに照らし合わせながら、酒を身体のなかに入れてやる。それが酒飲みに必要な心なのである。酒は心で始まり、心で終わるものだと私は信じている。貝原益軒は「養生訓」で、次のような名文を訓じた。「酒は少し飲めば陽気を補助し、血気をやわらげ、食気をめぐらし、愁を去り、興をおこして役にたつ。しかし、たくさん飲むと酒ほど人を害するものはほかにない。ちょうど水や火が人を助けると同時にまた人に災いをするようなものである」~
以 上