マンスリー上次さん6月号
TOPICS | 22.06.01
現在萌木の村で積んでいるガーデンの石積みは、日本の中でここだけの工夫がされた特別な石積みであることを知った。
私はここ10年間というもの石垣が気になって気になって、視線がそちらに飛んでしまうのだ。「石積み」と聞くとわざわざ見にも行った。戦国時代〜明治・大正時代に作られたお城の土台や城壁のような頑強で優美な石積みは残念ながら現代ではほとんど作れないだろう。経済的、道具の変化、材料調達などの面で難しいのだ。でもほんのわずかだが昔の伝統を受け継ぐ小集団がある。穴太衆(あのうしゅう)の人たちだ。延暦寺の門前町坂本(明智光秀がお城を気付いた地)で受け継がれていた石積み技術。織田信長の延暦寺焼き打ちのあと、再建できなくするために石垣まで破壊するように信長が命令した。しかし穴太衆の積んだ石垣は壊せなかったという。その実話が広がり多くの大名から取り立てられてその技術と名前は全国に広まっていった。しかし近代になるとコンクリートの普及と大規模な石垣の必要性がなくなり、その技術と名前は下火になっていった。
しかし我々のような零細企業が大名と同じ石垣を組めるはずもない。ところが輿水章一さんがこの10年間で知識を蓄え、経験を重ね、独自の石積みを生み出してくれた。図書館に通い文献を探し穴太衆の野面積み(のづらづみ)を学び、規則性のない癖の強い八ヶ岳の玄武岩などを材料に、現代の機械技術と石の目を読む経験でどこにもない、誰もやっていない石積みをしてくれているのだ。穴太衆の石垣を発注した甲斐小泉の女性が章一さんの石積みを見て「すごいことをやっていますね」と驚きと絶賛の言葉をかけてきた。穴太衆の野面積みは石垣の角度や重力の分散方法、表石の裏に使われる栗石の層の厚さによって水はけを良くする設計がされている。また大きな特徴は石積みをしながらそこにあった石を選ぶのではなく、たくさん集めた石を全て見定めて最初からこの石をどこに使うのか設計されているらしい。
最初の頃の輿水章一さんの石積みは、地域の石(八ヶ岳農地開拓の時に出た邪魔な石)を加工せずそのまま重ねていた(乱積み)。しかしコンクリートは使わないので安定しない。輿水さんは独学で寺院や城郭の石積みを学んだ。材料は地元八ヶ岳の石にこだわり、コンクリートは使わず自然石のみを使う。人足は輿水さんと弟子の深澤くん、それに私の3人。道具は昔のものはなく、電動ドリルなどを工夫して使う。まずは石の目を読む。どこにクサビを入れればどの方向に割れるかを推察する。そしてダイヤモンド加工された特殊ドリルで直径2.6cmの穴をいくつか開ける。穴ごとにクサビを打ち、均等に打ち込んでいくとパカリと割れる。ただし意に反する割れ方をすることも多く成功率は半分程度だ。石垣を見るとドリルの穴の痕跡が残っているので想像できると思う。今まで使ったドリルの刃は200本以上。あのような模様の入った石垣は他には見たことがない。穴太衆の穴太積みを目指して、揃う材料と揃う人足とある道具で穴太積みを目指したのだ。そこに石の目を読み取る勘が培われ現在の石積みができている。今まで使った石は約5,000t。見えている石とは別に裏に栗石(くりいし)として詰めてある石がほぼ同量ある。輿水章一積みと言える独自のものなのだ。
そして萌木の村の石積みが完成したあと、このような石垣が必要とされなくなり、さらに輿水さんや私は年齢を重ね作業できなくなる。こうしてせっかく確立された章一積みの技術や勘は失われていく。章一さんの石積みは清里・萌木の村唯一ここだけのものになるのだ。章一さんの石垣は城郭の石垣のように見た目も強度もすべてパーフェクトではないが、無骨で不規則でこの時代にこの人がいたからこそできた石積みなのだ。平成・令和の章一さんの石積みとして歴史を残している。私も100分の一、いや1,000分の一、この作業に関われたことが人生の誇りになってきた。二度とこのような石積みがされることはないだろう。だから見てもらいたい、10年間、時間と共に積み上げた輿水章一さんとその仲間の、素朴ではあるが着実で堅固な実績を!
最後にこの内容を輿水章一さんに伝えた時の彼の言葉を掲載したい。
「萌木の村の石積みは山野草ガーデンに立体感や奥行きを持たせるために作っている石積みだ。主役はガーデンだよ。偉そうに石垣がメインになっちゃいけないんだ」。
令和4年6月1日
萌木の村村長 舩木上次