マンスリー上次さん 5月号
TOPICS | 18.05.01
今年、私の住んでいる地域は開拓80周年を迎えます。清里に開拓で入植してから80年目を迎えるわけです。今は亡き私の父たちが「21世紀への伝言」という本を今から約20年前に残してくれました。その中で父・舩木常治は「若い人たちへ」というメッセージを残しています。少し長い文章ですが、ご紹介しますのでお読みください。
****************************************************************************
若い人たちへ
舩木 常治
中清里区八ヶ岳班。平成8年4月から私たちの地区はこのように呼称が変わった。理由は行政改革によるものとの話だが、班という単位は通常、救護班あるいは研究班などの少人数グループの場合に使われ、当地区のように百世帯に近い組織にはなじまないような気がする。また、合併する隣の区も大きな地区なので、高根町の中では駅前区についで大世帯の地区になり、地区内でも知らない人が多くなる始末になる。町はかねがね「ふれあい」を標榜しているのにと、この方策には疑問を感じる。加えて時代が変わり、価値観が変わり、自治組織への関心が昔と比較して次第に薄らいでいく。
戦後の復興期から成長期に日本中が力を結集したかのように働いて、豊かになったと思ったら、これからは個人の時代だと言う。プライバシーがどうのと言われると確かにその通りだが、こちらも遠慮して当たり障りのない会話で終わってしまう。昔話になってしまった開拓の頃は水がない上風呂桶も少ないので、隣と交互にもらい湯するのが普通であった。テレビどころかラジオもない毎日の生活では、いろりを囲んで話すこと、語り合うことが唯一の娯楽であった。話は次から次へと、時には生きていくための人生相談からその家の子の寝小便の癖まで知るほどであった。隣はその隣ともつながり、部落全員が一家族のように親しく、そして苦しい時代を励まし合った。私にはそんな結果が現在の百件近い八ヶ岳地区まで発展した原点だと思えてならない。この思いは次第に昔への郷愁だけでなく、生活の知恵として次ぎの時代の人に過去を知って欲しいと考えるようになった。
戦後50年節目の年の平成7年頃は戦争中のこともいろいろ思い出されて、特に過去を記録に残したい、農事実行組合はどのような活動をしたのか、酪農組合の活動は、部落会は、と調べたくなった。そこで以前から八ヶ岳開拓に関心のある山田さん(清里最初のペンション「はあと」のオーナー)に手伝って欲しいと持ちかけたところ、引き受けてくれた。ところが、言い出してみたものの過去の資料らしいものがほとんどない。それに開拓が始まった頃の私は十代半ば。先輩開拓者・酒井久重(さかいひさしげ)さんも二十代後半。その久重氏から聞いた話の記憶が大部分である。高根町史における開拓史の記載は、戦後の朝日ヶ丘地区の開拓から始まっていて、戦前の念場原開拓は記載されていない。
丹波山、小菅から移ってきた最初から、安池さんを頼りに集合し、指導された通りに(指導に従わない人達が事件を起こしたこともあったが)学校を作り集会所を作って生きてきた。記録を残すどころか組織の規約を作ることだって大変。明日の食べるものをどうするかが毎日の生活であった、などと考えたり悩んだりしているうちに一年近くが過ぎてしまった。翌年八ヶ岳地区の呼称が消えると聞いてあせったし、また考えた。最初の農事実行組合は流れとしては現在の農事組合だが、農業に直接関係しない問題も起きている。それが部落会であり今日の自治会につながるとなればむしろ八ヶ岳区史とした方が意義があるのでは・・・と「苦樂を共」の会の数人と話し合い賛成が得られたので八ヶ岳通信に発表した。そして資料の提供をお願いしたところ次々と持ち込まれホッとした。
半世紀を越える貴重な分書類、虫食いの跡や埃まみれの書状等、よくぞこれまでと感心し、提供された方々が今日まで大切に保存された気持ちは、何か私の願いと気脈に通じるように思えて、励まされた。次に編集委員として小須田さん(小須田牧場初代オーナー)をはじめ8人の方に集まってもらい座談会のような形で話しをまとめ、年代順に並べて年表を作る。幸いなことに開拓50周年の時に「清里開拓物語」の本が出版され、同書の末尾に年表がある。これを下敷きにしてもう一度調べれば、隠れていたことが再発見されるのではないだろうか、いや隠していたというのが本音の事件もある。実を言うと一生懸命に指導されている安池さんに申し訳なくて報告できない大きな失敗をした事件がある。また、開拓物語には全員が心をあわせてとあるが、人間の悲しさ、そして生きていくのがやっとの毎日の生活の中で、そねみやねたみから思い出したくない陰の部分だってある。ただし、それを暴いて表面化することではまったくなく、正直に書き残して次の時代の人が同じ失敗を繰り返さないために、正確な記録を残したいのがこれから作ろうとする本の目的であり意味と思っている。
編集会は毎週1回、金曜日の午後を充て、平成9年1月末から始めたが、編集委員の皆さんが良く集まってくれる。そして実にしっかりと覚えていて話が途切れることがない。特に婦人連はハッキリとした口調で次から次へと・・・。私にとって内心たじろぐ感じと同時に楽しく充実した一刻であった。時を超え過ぎた日のことを語り合うのは気ぜわしい現代に少なくなったが、やはり必要なことではと思う。編集会が開かれ順調に進んでいたがまた心配が起きた。みんながこんなに一生懸命に集まってくれて本になった時、若い人達ははたして読んでくれるのだろうか、豊かな時代に親の苦労話なんか聞きたくもないというご時勢である。無駄なことをと思われているのではないだろうか、折から私は体調を崩し床に伏す時間が長くなったことも重なって気がかりが頭の中をウロウロする。気になり始めた頃の確か2月某日、新聞に「生きるために書く遺言」という記事があり、読んでみれば深刻な話ではなく、Kさんという43歳の男性が正月から遺書を書き始めたが世間にいう遺書のように相続財産をどう処分するかというのではなく、元気なうちに子供や親しい人達に現在の考え方をワープロにいれ、状況が変わった部分は更新する。死の床では言おうとしても状況的に、気力的にも難しいから・・・と述べている。
「元気な内に残す遺書」納得というより、病にいらだち滅入った気分の私には、何か暗い中でローソクの光をみつけたような感じで元気になった。早速編集会でこの記事の話をしたが、みんなも同感してくれたようで若い人達が・・・と私の気がかりも承知してくれた。前記のとおり「遺書」の言葉の悲愴感で押し付ける気持ちではないが、この本をいつかは読んでほしい。現代風に格好良く言えば、21世紀への老いた私達からの伝言、メッセージと思ってくれれば嬉しい。再び書くが「八ヶ岳区」の呼称は消えたが過去は消えないし決してはいけない。区の前は「八ヶ岳部落会」であったが部落は差別用語として使えなくなった。通して言えることは60年近い歳月の三分の二にあたる四十年間は貧しかった。高度成長の波がこの地に波及するには時間がかかり豊かさが言えるようになったのは20年くらい前の至近の時期からである。そして60年前は極貧の時代であった。初期の農業は失敗に次ぐ失敗続き、その詳細は本書に記すがその中でやっと「蕎麦」が実をつけた。しかしヒョロリと茎の細い蕎麦で「線香そば」と言って、実とは名ばかりの粒は三つしかついていない。親父どもはこう言った。「一粒の実は来年の種に残しておけ」「二つ目は自分で食っても良いが三つ目は人さまのもてなしに使え」と。豊かになってこんな「せんこそば」の話は人々は忘れてしまっている。しかし、これでいいのだろうか。21世紀には戦争を起こさない努力はするだろうが天災はどうする?阪神大災害のとき、自治組織のしっかりしていた地域では救出が早く死者が少なかったと報道され、自治会の重さはわたしじしんが再認識した。自治組織の昔の姿を知っていただければ現在と比較し何が得られ何を失ったかがわかるのではないだろうか。年表作りの作業が完成し、次に本の作成が始まる。残念ながら私は体調の回復が得られず児次欄の方々におまかせをする機会に、本書を作ろうとした思いを述べさせていただいた。そしてもう一度お願いをする。
若い人たちへ。いつか読んで下さい。
人という字は支えあって生きる意味です。
センコそばの三つ目の粒の話も同じです。
****************************************************************************
私は若い人達に自分の想いを伝えることができるのだろうか?!現在の私の悩みのひとつです。この「若い人たちへ」の父と同じ心境です。私は近々腰の手術をすることを決断しました。身体を治し、「センコそば」の話を、ポール・ラッシュ先生のお言葉;Do Your Best ! and It Must Be First Class.の精神とともに、次の世代に伝えていきたいと思うのです。
平成30年5月1日
萌木の村村長
舩木 上次