マンスリー上次さん1月号
TOPICS | 20.01.01
清里は昭和8年に清里駅と小淵沢駅間が開業し、小海線全線が開業したのは昭和10年だそうです。そして昭和13年に東京都民の水がめとして小河内ダムが作られることになり、その湖底に沈む二つの集落・丹波山村、小菅村の人達28軒が「八ヶ岳開拓団」として清里の原野に移り住みました。私の父はその開拓団の中の一人だったのです。
時を同じくしてポール・ラッシュ先生が立教大学の若者のキャンプ場として富士山が美しく見える場所を探し求め、最終的に現在の清泉寮の場所に施設を建築したのも昭和13年です。清里村と大泉村にまたがる場所であったことから「清泉寮」と名付けられたのです。当時の話を聞くと食料不足と貧しさ寒さその中での開拓は現代に生きる人にとっては想像できない厳しさだったようです。更に不幸な太平洋戦争勃発、世界中が苦しみました。戦後ポール・ラッシュ先生は日本の田舎が立ち直れるようにと、元々キャンプ場として建設した場所で「清里農村センター」というモデル事業を始めることになりました。そこで私の父は農場で、母は診療所のスタッフとして働き、出会い、私は昭和24年1月清里農村センターでの初めての子供として生まれました。そのことによって私はポール・ラッシュ先生と同じ時代を生き、その仲間の人たちと出会えたのです。今考えると何という幸せなことか、戦争がなかったらポール先生はこの地を選ばなかったはずですし、私の父と母は出会わなかったので私はこの世に存在しなかったのです。
清里農村センターの宿舎で育った私は小さな時から仔牛や羊が友達でした。そして小学校から帰ると開墾された農場の畑で石拾いの手伝いをするのが日課でした。大人に混じって働きました。家には電気が通っていましたが裸電球一つの生活です。冬は家の中の水はすべて凍るという寒さでしたがそれが普通です。今と比べると大変ですがその時は誰も大変とは思っていませんでした。秋になると冬支度のために森の木を切りストーブの薪づくりをしますが、すべてノコギリ、斧を使った手作業です。しかし里山は美しく、教会の周りはスズラン畑、清泉寮まで山野草の花園でした。そのときはそれが当たり前でした。しかし私が大人になり「ROCK」を始めた頃から山野草ガーデンは熊笹に変わり、森は手入れが行き届かなくなり、倒木や雑草で荒れ果てた状況になってきました。それは日本の美しい里山すべてがこの頃から壊れ始めていたのです。
開拓→農業・酪農→観光、そして現在と時代が流れ私が気付いたこと。それは、我々が目指すのは、開拓時代の人と自然が助け合い共生する考え方と、そこから生まれるナチュラルな景観の美しさです。効率と経済性ばかりを追い求め、本当に大事なことを見つめられなくなった現代、私たちは庭づくりを通して気づかせてもらいました。