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萌木の村マガジン

「ROCKで働いている従業員が楽しくしていないとだめだね。」——ROCK50年のあゆみ⑦N.T

2022

Feb

11

萌木の村アーカイブ

ROCKの歴代店長へインタビューをする、「ROCK50年の歩み」。前回は輿水上に話を伺い、ROCKやお客様との「縁」、これからのROCKへの思いについて聞いた。第7回目となる今回は、事情により顔や本名を出さないことを条件に取材に応じてくれたN.T。ROCKでの思い出、ROCKの店舗が喫茶の初代からパブの2代目となった頃の話などを伺った。

ROCKにやってきた

―今回は、インタビューへのご協力ありがとうございます!N.Tさんは、ROCKにいつ頃来たんですか?

 俺が萌木の村で働き始めたのは、29歳の時。最初はハットウォールデンで働いていたの。初日のことは今でも覚えているな。木内さん(萌木の村スタッフ)の家に泊めてもらって。それで「ビール飲みますか?」って言われたな。当時は道の自動販売機でビールが買えた時代だったから。

それで、次の日からはホテルの地下に寮があって、そこで寝泊まりしていたな。1年間はハットウォールデンの厨房で働いたけど、そのおかげでROCKではちゃんとした料理を作れた。ハットウォールデンで働いてなかったらひどいままだったと思う。

―「ひどいまま」とはどういうことですか?

 当時、ROCKは良い店だったんだけど、飲食店として意識のレベルが低かったと思う。だって、メニューが少ないんだよ。カレーとホットサンドとワッフルぐらいだし。調理についてはかなりいい加減だったな。

一番驚いたのは、ある日、出勤したらカレーが白っぽかったんだよ。なんでなのか、他の従業員に聞いたら、「牛乳が余ってたんで入れました」って。思わず「ばか野郎!」って言ってしまったね。あとは、普通はカレー作るときに肉とか野菜を炒めるじゃん?だけど、沸騰したお湯に生の肉や野菜をそのまま入れて煮ていたんだよね。アクも取らないし。俺がハットウォールデンからROCKに異動してからちゃんとするようにしたけどな。だから、最初の1年をハットウォールデンで働いて良かったなと思う。まあ、もしかしたら創業当初はちゃんとしていたけどちょっとずついい加減になったところを、俺のときに元に戻しただけかも。

当時の営業日報もほとんど残っていました。日報を通して情報共有をしていた様子が伺えます。

思い出

―いきなりすごいエピソードが飛び出しましたけど、ある意味「ロックな話」ですね。それで、ROCKに異動して店長になられたと思いますけど、どういう経緯で店長になられたんですか?

 ハットウォールデンからROCKに移ったときは店長じゃなかったけど、しばらくして社内で大規模な人事異動があって、俺が店長になった。ただ、最初は断っていたんだけどね。

―どうして断っていたんですか?

 俺の前にROCKの店長をしていた輿水さんは、地元の人間で人脈もあった。ROCKは当時から地元のつながりが強い店だったからお客さんも地元の人が多かった。けど、俺は地元の人間じゃないし、その人脈を引き継ぐことができるのかなって思っていたから。最終的には店長になったけどね。

ROCKに来たお客様に記入してもらっていた「お客様カード」。個人情報と、お客様からROCKへ伝えたいことが書いてある。

―そうだったんですね。ROCKの思い出は他に何かありますか?

 さっき、カレーの話があったけど、そのカレーとセットだったサラダのドレッシング作りが大変だったんだよね。昔は販売もしていたから大量にドレッシングを作らないといけなかった。油の入った一斗缶を抱えて、樽の中に油を少しずつ入れて、とにかく混ぜて乳化させていたんだよね。かき混ぜるのがあまいと分離してしまうからとにかく必死になって混ぜた。

あとはフィールドバレエかな。昔は社内にバレエの理解者を増やそうということで、俺も含めてスタッフを何人かバレエに出演させてもらったな。俺は貴族の役だったんだけど、本番で緊張して前を歩く人のドレスを踏んづけてしまったことがあったな。他の役をやったスタッフの中には、手をつかずにそのまま倒れる役だったり、ただじっと立っている役だったりと、なかなかに大変だったね。

そうそうバレエといえば、野外ライブで始末書書いた話があったな〜

―始末書ですか!?

 そう。その当時、年6回スタッフがバンドを組んでお店でライブをしていたんだ。悪天候でフィールドバレエができないときに、バレエ出演者を勇気づけようとオリジナル曲を演奏したのが始まりで、それが定着して年6回ライブをやるようになった。

それで、フィールドバレエが終わり、お盆すぎのあるとき、野外ライブをやりたいなと思ったわけ。それで社長に計160万円ぐらいした機材を買ってほしいとお願いしたらOKもらって、機材調整をするPAもバレエの人にお願いしたら「ビールで手を打とう」って協力してくれたの。それで野外ライブやったんだけど、自分の声が飛んでいくのはすげー気持ちよかったな。でもね、そのあと始末書を書いたんだよね。

実は、その野外ライブは近隣の方から許可をもらってなくて、音をガンガン出していたから次の日は苦情が殺到したんだよね。2キロ先のペンションから苦情が来たくらいだから相当なもんだったよ。警察も来て、始末書を書かされたんだよね。

それで、その1回で懲りたら良かったんだけど、翌年も許可を取らずにまたやったんだよね。それでまた始末書書かされて。それで、「ああ、やっちゃまずかったな」と思って、それ以降は野外ライブをやらなくなったな。そういうめちゃくちゃな時代だった。若気の至りというか。

N.Tが店長を務めていた年のクリスマスライブのDVDを見せていただきました。ゲストバンドもいましたが、メインはROCKスタッフのバンドです。スタッフもお客様も大盛り上がりでした!

2代目の店舗へ

―「ロックな話」ですね。話は変わりますが、N.Tさんが店長をされていた時が、ちょうど初代ROCKから2代目のブルーパブレストランへ変わるときだったようですが、その時どのような経緯でお店が変わったんですか?

 俺がROCKに来る前から改装する話はあったらしいけど、そこから10年近く、改装していなかったんだよね。それである日、唐突だったんだよね。急に社長が「地ビールをやるぞ」って言い出して。何の展望もなかったんだけど、社長の会社だし、じゃあやりましょうってなったよね。それに合わせて改装もあった。

地ビールについては、当時は日本だとヨーロッパのイメージが強かった。ドイツなどからマイスターを呼んで造っていたけど、それはヨーロッパの味にしかならなかった。言い方を変えると、ドイツの人がうまいと思うけど、それは日本人好みじゃない味に仕上がっていたと思う。結局、地ビールやるって言ったけどどういう風にしたら良いか分からなかった。

―そうだったんですね。かなり悩まれた様子でしたけど、何か転機はありましたか?

 地ビールのこと考えすぎて、ある晩寝ていたらふと夢の中で「アメリカに地ビールはないのか?」って浮かんだんだよね。俺は「これだ!」って思ったよ。思い立ったが吉日じゃないけど、早速行動したよ。調べてもらうと、アメリカのシアトルに地ビール会社が200軒近くあったみたいで、1週間後には何人かでアメリカのシアトルへ向かった。視察を半年で2、3回やって、そこでイメージが固まったかな。そしてアメリカ視察で得たイメージを2代目のお店作りにも落とし込んだ感じかな。

―夢に出てくるほど悩んだんですね。具体的にお店のどういう部分に落とし込んだんですか?

 いろいろな原色のお皿をアメリカから取り寄せた。黄色やピンク、白、青。ただ、皿自体が重いからカレー入れて運ぶのは大変だったけどね。細部までこだわったよ。ただ、俺が店長を辞めてからは、真っ白な皿にしたみたいだけど。

アメリカの食器ブランド「FIESTA」の丸プレート。実際に使用していたものです。

―そうだったんですね。ちなみに、2代目のROCKになってからの客さんの反応はどうでしたか?

 一番来るのは地元の人だったけど、大抵は「昔のROCKがよかった」って言われたよ。2代目のROCKになってから1年で俺は辞めているけど、その1年で散々言われたな。

でも、2代目ROCKから20年以上経った今、改めて見ると「つくって良かったじゃん」って俺は思うよ。3代目の今のROCKは40人くらい働いているみたいだけど、そんだけの人が働ける場所になっているし、いいじゃん。

―店長を辞められたのはどうしてですか?

 2代目のROCKからは、厨房ができ、厨房とホールで仕切られた。つまり中と外で人が分かれるようになったんだよね。そうすると何が起こるかというと「中は中、外は外」という風に分かれてしまう。それをまとめるほどの力が俺にはなかったな。

あとちょうどその頃、飲食業に詳しい人を外部から招いて、ROCKの頭になるようなポジションに就かせていた。俺も店長だったけど、先導が多くても現場は困るでしょ。だから辞めたんだよね。

これから

―話は変わりますが、ROCKがこれからも愛されるお店であるために必要なことは何だと思いますか。

 それは単純なことで、昔から変わらない。地域のため、人のためってことも大事だけど、ROCKで働いている従業員が楽しくしていないとだめだね。俺がいた頃の話だけど、お客さんから「いい店ですね。ここで働けて幸せですね」って言われたことがある。当時は死ぬほど忙しかった。夜の12時まで働いて、そこから話し込んで深夜2時、3時に帰るなんて生活で、大変だったけど楽しかった。だからお客さんから見てそう思われたんだと思う。そういったことは何も技術はいらないよね。単純なことだけど、そうできたらいつまでも続いていくと思う。

―そうですね。ただ今のROCKは、長く続いた分、店も大きくなって、従業員一人一人に楽しく働く意識を浸透するのが難しいという声もあるそうです。

 それは、そう思ってしまっているからだよ。普通は大きいお店になってしまったから無理と考えるかもしれないけど、不可能というわけではない。努力すればできること。大きいお店である分、労力もかかるかもしれないけど、絶対できる。

それに、大きいお店になればチャンスも大きくなる。それは言い換えると、働く人が幸せになるチャンスも大きくなるということ。大変だけど、クリアできれば楽しいし、そういった何かを生み出す苦労はお客さんが見ているから、お客さんにも気持ちは伝わると思う。

―なるほど。無理と決めつけることは良くないことですよね。あと、何か具体的に参考になる手法がもしあればお聞かせ願いますか。

 例えば今のROCKにもあるけど昔のROCKにもカウンターがあった。ただ、今と昔で違うのは、昔は厨房がなくて、カウンターに座るお客さんの目の前で仕事をしていた。だからそこでお客さんと話すことも多かったし、顔も覚えられたんだよね。昔のROCKはカウンターに来るお客さんも多かったし、カウンターは大事だよね。

それと、アメリカの視察に行ったときに、「さすがアメリカ。合理的だな」って思うことがあって、カウンターに座ると目の前に何人か店員がいたんだけど、自分のテーブルを担当するのは決まった店員しかしなかったの。何番から何番まではこの店員が対応するけど、担当外のカウンターのお客さんは対応しないってやり方だった。こうすると「この店員に会いに来た」お客さんも増えるんじゃないかな。

―そういう手法もあるんですね。参考になります。今日はいろいろディープな話を聞かせていただきありがとうございました。

N.Tは、1代目・2代目ROCKの当時使用していた物をたくさん持っています。2021年にオルゴール博物館で開催されたROCK50周年展でも多大なご協力をいただきました。

【編集後記】
今回はN.Tに話を伺ったが、良くも悪くもめちゃくちゃな時代だったんだと思った。だが、根底にあるのはお客さんを楽しませよう、働く従業員が楽しく働けるようにという想いからなのだろう。

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