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萌木の村マガジン
私が今日まで生きてきた中で、何人の人に支えられて生きてきたのだろう?フッと思った。直接出会った人だけでも数知れない。覚えている人、忘れてしまった人、数えきれない。出会っていないが関わっている人となれば、今日一日だけでも想像できない。
今着ている服は誰が作ったのだろう、運搬した人、販売してくれた人はどんな人?
朝食べた食材を栽培した人、調理してくれた人。
今書いているペンは誰が製造してくれたのか?この紙は誰が?
そう考えると、今日1日でもその数は100人や200人では収まらない。すべての織りなす人間模様の中で生かされていることに気づく。そしてそれは過去にも遡る。萌木の村で所蔵しているオルゴールは100年以上昔のものだ。私が生まれる前の人とも結ばれている。今自分が存在していることに、何人の人に迷惑をかけ嫌な思いをさせ傷つけてきたか。自分で気がついているものもあるが、無意識に人に迷惑をかけてきたことも数知れないはず。
私はひょんなことから教育の世界の方と仕事をすることになった。そこで感じることは、教育に関わる人たちは“教育者”という肩書きを背負っているために、教育者を演じなければならないストレスを常に抱えて生きなければならないということ。その大変さに、気の毒な思いさえする。
人間はどんな立場であっても、感じる力はさほど変わらないと思う。でも、政治家や教育者は世間の中で「こうでなければならない」という真綿のような見えない力によって、その枠の中に閉じ込められている。
実はその枠が本来のあるべき自分の姿と異なる場合、大きなストレスになってしまっているように思う。そのストレスは自覚しないうちに、自分の外へ向かって発散されているのではないだろうか。
最近思うことがある。見えない糸で結ばれ、今という時代に生かされている自分は多くの人と繋がっている。現代の人だけでなく未来の人たちとも繋がるのであれば、わずかであっても罪滅ぼしに人の役に立ちたいものだと。
しかし自分の人間力のなさに愕然とする。自分は愚かな人間であることを自覚しているか?責任を人に押し付けていないか?穏やかな顔をしているか?失敗や間違いをしたときに素直に謝ることができるか?自分にできないことを素直に「できない」と言えるか?などなど考えていると、「あれ?今の世の中、何かおかしいぞ」と思ってしまう。しかし自然豊かな清里なら、素敵な考えの街ができるような気がする。私は漠然と夢を見ている。