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萌木の村マガジン
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最近ふと思うことがある。
新しいことはいつも、最初は理解されない。理解されないだけでなく、反対される。同じことの連続は、習慣あるいは文化というのだろう。
日本人は米を食べる。それが日本の文化だ。私が高校生だった頃、高校生といえば坊主頭に学生服は当たり前。それが文化であり習慣だった。
私は高校時代、坊主頭反対運動をして謹慎処分を受けた。いつの時代でも“変える”ということには摩擦がつきもの。いつの時代でも、新しく変えることを良しとしない人がいるものだ。よくよく考えると、私はいつも新しいことに挑戦してきた。
しかし、最近自分は挑戦をしていないことに気がついた。なぜだ!?歳のせいか?時代か?能力の衰えか?勇気の欠落か?新しいイメージが生まれないのか?
周りを見れば、シャトレーゼの会長のように80歳を超えても次から次へとパワフルにチャレンジしている方もいる。あのパワーはどこから来るのだろうか。尊敬する。
私は投資をするが回収する力が足りないために、チャレンジしたことから見返りとして経済力を手に入れていないことに気がついた。結果として、新しいことへの挑戦意識がなくなっているのだと思う。
このような状況で、芸術について考える。アーティストにとって、芸術と文化は違う。どちらが良い悪いではなく、また上か下でもなく、単に違う。3月26日まで競い合っていた、大相撲春場所は文化だ。歌舞伎も文化だ。
最初は週間の中から芽が吹いて、文化へと育っていく。それがクリエイティブな挑戦を重ねることで、アートや芸術になると思う。さらに、芸術は進化し続けるものだと思う。
(同時に、同じことの繰り返しによって追求・探求する人たちの偉大さも感じる。いわば“道”を極める人たちだ。)
ピカソの絵は、最初から認められていただろうか。
ビートルズのロック音楽は、最初から認められていただろうか。
清里フィールドバレエは、「清里の野外で開催とはこの地のものではない」と言われた。しかし、清里フィールドバレエは清里の文化になった。では、それを毎年どう進化させていくか。漫然とした同じことの繰り返しは、退化につながる。33回目を迎えるにあたり、私から新たなアウトプットが出てこない。それは新鮮なインプットがないからだと思う。アウトプットできないと、保守的思考になる。
コロナ禍とウクライナ問題によって、好むと好まざるを関係なく世界の価値観が変わるのだ。その時、変化に対応する力が必要になる。心の備えをするべきである。
私は何をしたいのか、自分を見つめ直している。人それぞれには役割がある。私の役割な何なのか、残された時間で社会に貢献できる役割探しの旅でもある。
萌木の村村長